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第3話 最後の一行

Autor: みだん
last update Data de publicação: 2026-10-26 18:54:16

研究室の窓の外はすっかり夜の色に沈んでいた。

机の上の魔法灯が紙の山のあいだに小さな光の輪を落とし、その中でリゼットの指だけが規則正しくページをめくる音を立てている。

本文の条文は二十二条で終わっていた。

その後ろに、附則が続く。

担保の保管の仕方、契約院への届け出の書式、双方が亡くなった場合の扱い。

どれも、どの契約書にも並んでいそうな決まり文句だった。

それでも彼女は、一行ずつ目で追った。

そして附則の最後の一行で、指が止まった。

読み違いではないかと、もう一度、頭から読み直す。

三度目に読み終えたとき、胸の奥で心臓が大きく一つ跳ねた。

三十年前の誰かが、この一行を、ちゃんとここに書いておいてくれたのだ。

「……ありました」

顔を上げると、三人の視線がいっせいに彼女に集まった。

リゼットはその一行を声に出して読んだ。

「『受取証が失われたときは、債務者の帳簿に記された返済の記録をもって、完済の証に代えることができる』」

研究室がさっきとは違う種類の静けさに包まれた。

アンリが信じられないというように目を瞬かせる。

「帳簿……わしの、店の帳簿で?」

「はい。二十年前の返済の記録が残っていれば、それが受取証の代わりになります。アンリさん、帳簿は」

「ございます。店を始めてからの五十年分、一冊も捨てずに」

老人の声が上ずった。

リゼットは思わず、胸の前で両手を握りしめる。

帳簿を捨てずにとっておく人の気持ちなら、彼女には誰よりもよく分かった。

テオドールが契約書を引き寄せ、魔法印の上にもう一度手をかざした。

インクで汚れた指先が、今度は附則の最後の一行をなぞるように動く。

「……なるほど。この一行も、ちゃんと術式に織りこまれている。帳簿の記録を示して届け出れば、魔法は完済を認める。執行が止まるんじゃない。約束が、果たされたことになるんだ」

彼は顔を上げ、リゼットを見た。

くせ毛の下の青い瞳が、子どものように輝いていた。

「用心深い友人だったんだね、アンリ殿。末尾の一行に、ちゃんと逃げ道を書いておいてくれた」

そう言うと、テオドールは振り返って、懐中時計を手にした助手を見た。

「ルネ、時間は」

「夜の鐘が鳴ったところです。零時まで、あと三時間ほど」

「十分だ。帳簿を取りに行こう」

夜の王都は昼間とは別の顔をしていた。

石畳の通りには魔法灯が等間隔に並び、その淡い光の中を、四人の足音だけが急ぎ足に響いていく。

春とはいえ夜風はまだ冷たく、リゼットは外套の襟をかき合わせた。

魔法灯の下を通るたび、結んだプラチナの髪が白く淡い光を返す。

先頭をルネが灯りを掲げて歩き、テオドールは老人の歩幅に合わせて、その隣をゆっくり進んでいる。

家では父が娘の帰りの遅さを案じているかもしれない。

それでも今夜は、最後まで見届けずには帰れなかった。

プリュム文具店は古い商店が並ぶ通りの角にあった。

アンリが震える手で鍵を開けると、懐かしい匂いがふわりと流れ出してきた。

紙と、インクと、磨きこまれた木の匂い。

魔法灯をともした店内を見回して、リゼットは小さく息をのんだ。

壁一面の棚に、便箋や封筒が色ごとに並んでいる。

ガラスの陳列台には、ペン先の形がひとつずつ違う羽根ペンと万年筆。

奥の棚には契約院の指定店の札が掛けられ、魔法印に使う契約インクの瓶が、封をされたまま整然と並んでいた。

契約インクは指定店でしか扱うことを許されていない。

子どものころ、母に手を引かれて、一度だけこの店に来たことがあった。

母は便箋を一枚選ぶのに、たっぷり半刻もかける人だった。

その隣で、リゼットもこうして棚を見上げていたのだ。

世界じゅうの言葉が、ここで生まれるのを待っているような気がして。

「……いつか、こんなお店を」

思わず、唇から言葉がこぼれた。

すぐ後ろにいたテオドールがふとこちらを見た気がしたが、アンリが帳場の奥から呼ぶ声に、リゼットは慌てて駆け寄った。

帳場の奥の棚には背表紙に年号を書きこんだ帳簿が、五十冊近く並んでいた。

リゼットは二十年前の一冊を抜き出し、魔法灯の下でページをめくった。

几帳面な字だった。

仕入れの記録、売り上げ、日々のわずかな出費まで一行も乱れずに書きこまれている。

旧友への返済は毎月同じ日に、同じ額ずつ記されていた。

リゼットは指で残高の欄をたどり、頭の中で数字を足し引きしていく。

計算は最後まで一度も狂わなかった。

そして夏の終わりのページで、残高がぴたりと消えていた。

――旧友への返済、最後の一回。

これにて完済。

その横に別の人の筆跡で、短い一行が添えられていた。

――確かに受け取った。

長いあいだ、ご苦労だった。

アンリが帳簿の上に手を置いたまま動かなくなった。

節の目立つ指がその一行の上で小さく震えている。

リゼットは何も言わずに、老人が顔を上げるのを待った。

契約院に戻ったとき、時計の針は零時の少し前を指していた。

静まり返った廊下を、四人の足音が駆け抜ける。

階段を上がるあいだにも、ルネが「あと十分」「あと八分」と時を読み上げ、そのたびにアンリの息が浅くなった。

研究室の机の上に、契約書と帳簿が並べて置かれた。

テオドールがその両方に手をかざすと、魔法印がこれまでになく強く光りはじめた。

白い光が帳簿のページに記された一行へと、細い糸のように伸びていく。

「読み取っている。……もう少しだ」

ルネが懐中時計を握りしめ、アンリは祈るように両手を組んだ。

リゼットは息をするのも忘れて、その光を見つめていた。

遠くで、零時を告げる鐘が鳴りはじめた。

一つ、二つ、三つ。

鐘の音が重なるごとに、魔法印の光が脈打つ。

そして十二の音が鳴り終わったとき、光はふっと和らぎ、印の縁に完済を示す細い線が静かに浮かび上がった。

何も起こらなかった。

店の権利はどこにも移らなかった。

「……間に合った」

テオドールが大きく息を吐き、そのまま椅子の背にもたれかかった。

ルネがその場にしゃがみこみ、アンリは顔を覆って、声を殺して泣いた。

しばらくして、落ち着きを取り戻したアンリが、上着の内側から細長い箱を取り出した。

「お嬢さん。今夜のお礼に、これを受け取ってくださらんか。店で一番いい万年筆です。帳簿を取りに戻ったとき、どうしてもお渡ししたくて」

「そんな、いただけません。わたしは読んだだけで」

「その、読んだだけ、に店を救われたんです」

老人は箱を彼女の手に押しつけ、しわだらけの顔でにっこりと笑った。

その様子を眺めていたテオドールが、ふと口を開いた。

「さっき、店で言いかけていたね。いつか、何だって?」

リゼットは少しためらってから、箱を胸に抱いたまま答えた。

「……いつか、あんなお店を開きたいんです。言葉が生まれるのを待っている、紙とインクのお店を」

テオドールは何も言わず、ただ面白いものを見つけたような目で、彼女をじっと見つめていた。

リゼットは箱の蓋をそっと開けた。

黒い軸に、細い金のペン先。

クリップには、小さな羽根の刻印が入っている。

羽根ペンの名を持つ店の品であることを示す、ささやかな印だった。

魔法灯の光を受けて、それは静かに輝いていた。

一年後、彼女はこのペンで、ある契約書を書くことになる。

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